リソース不足の監査役のための実践ガイド
- 社員数100名規模のサービス業では、監査役をサポートする専門部署を置く余裕がないのが実情です。この「孤独でリソースのない戦い」をどう乗り切るかについて、実務的な観点から深掘りします。
- リソース不足の正体:何に時間を奪われているのか?
- 「一人監査役」を救う実務的なサバイバル術
- 「内部監査」と連携してリソース不足を乗り切る実務術
- 【ひな形】内部監査・連携ミーティング議事録(ログ形式)
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- 仮設例_売上3倍・社員2倍。内部統制が追いつかない2年間の記録
1.リソース不足の正体:何に時間を奪われているのか?
① 社内調整と「資料集め」の泥沼
② 経営陣や部門長との「日程調整」
③ 「監査調書」の作成という事務作業
①社内調整と「資料集め」の泥沼
- 「あの契約書を見せてほしい」「この経費の領収書はどこか」と現場に依頼しても、後回しにされたり、探すのに時間がかかったりします。監査そのものではなく、「監査を始める前の準備」で疲弊してしまいます。
②経営陣や部門長との「日程調整」
- ヒアリングを実施しようにも、多忙な社長や営業部長のスケジュールを押さえるのは至難の業です。スタッフがいればカレンダーの調整を任せられますが、一人監査役は自ら何度もチャットやメールで調整に奔走することになります。
③ 「監査調書」の作成という事務作業
- 監査の記録を法定の要件を満たす形で文書化(調書化)する作業は、非常に重い負担です。年間40〜60本を作成する場合、ゼロからWordに向かってタイピングしていると、それだけで月の大半が終わってしまいます。
「一人監査役」を救う実務的なサバイバル術
- 仕組みと割り切りで乗り切るための具体的な解決策です。
1.「便乗監査」の徹底
2.リスクアプローチ(捨てる勇気)
3.内部監査担当者を「実質的な手足」にする
4.徹底した「フォーマット化」
1.「便乗監査」の徹底
- わざわざ「監査役ヒアリング」という時間を単独で設けるのではなく、既存の会議を利用します。例えば、毎月の経営会議や営業部の定例ミーティングに同席し、その場で必要な質問を投げかけます。これをそのまま「監査調書」に落とし込むことで、日程調整の手間を完全にゼロにできます。
2.リスクアプローチ(捨てる勇気)
- すべてを均等にチェックしようとすると必ず破綻します。サービス業であれば「労務(勤怠・残業)」と「経理(現預金管理・役員経費)」がIPO審査における二大リスクです。「今年はここしか見ない」と割り切り、影響度の低い部署の監査は書面チェックのみで済ませるなど、メリハリをつけます。
3.内部監査担当者を「実質的な手足」にする
- 社長直轄の「内部監査担当者」と強固なタッグを組みます。「監査役がこの視点で見るから、内部監査のついでにこのデータも集めておいてほしい」と依頼し、情報収集のプロセスを相乗りさせてもらいます(これを三様監査の連携と呼びます)。
4.徹底した「フォーマット化」
- 監査調書や計画書は毎回ゼロから作らず、穴埋め式のテンプレートを用意します。日時、場所、対象者、確認事項、結論の5項目だけを箇条書きで埋めれば完成する状態にしておくことが必須です。
3.「内部監査」と連携してリソース不足を乗り切る実務術
- 監査役と内部監査は、実は「見ている方向」が少し異なります。ここを整理することが連携の第一歩です。
①内部監査の役割
②監査役の役割
①内部監査の役割
- 社長もしくは取締役会直轄で、現場が「決められたルール(マニュアルや規程)通りに動いているか」を細かくチェックする部隊。(例:タイムカードの打刻漏れがないか、現金の帳簿が合っているか)
②監査役の役割
- 株主の代弁者として、「経営陣が不正をしていないか」「不祥事の芽を放置していないか」を監視する立場。
- 監査役一人で全社員のタイムカードや領収書をチェックするのは不可能です。そこで、現場の細かい数字やルールのチェックは内部監査に任せ、監査役は「その結果を受けて、経営陣がどう改善に動いたか」を監視するという役割分担に持ち込みます。
連携を最大化する3つの具体的なステップ
ステップ①:期初の「監査計画」を合体させる
ステップ②:内部監査の「報告会」に相乗りする
ステップ③:月1回の「情報交換ランチ」を定例化する
【ステップ①:期初の「監査計画」を合体させる】
- 内部監査担当者が「いつ・どの部署を監査するか」の年間スケジュールを入手します。現場への負担を減らすため、「内部監査が購買部に入る月に、監査役も購買部のチェックを行う」と決め、現場へのヒアリングを同席で行う「共同監査」の形をとります。
【ステップ②:内部監査の「報告会」に相乗りする】
- 内部監査担当者が社長へ監査結果を報告する会議(またはミーティング)に、監査役も必ず同席します。
- 社長が「ふーん、わかった」で済まそうとした時に、「社長、この労務の未払いはIPO審査で致命傷になります。来月までに是正策を出させてください」と発言します。この会議の記録が、そのまま強力な「監査調書」になります。
【ステップ③:月1回の「情報交換ランチ」を定例化する】
- 公式な会議だけでなく、内部監査担当者と月に1回、30分程度のカジュアルな情報交換の場を設けます。現場を細かく見ている内部監査からは、「実は最近、営業部の雰囲気が悪くて…」といった、書類には現れない生のリスク情報を仕入れることができます。
💡連携において「やってはいけない」注意点
- 内部監査を「自分の部下」のように扱わない 内部監査はあくまで社長の直轄組織です。監査役が直接「あれを調べろ、これを調べろ」と命令することはできません。
- 「この部分のリスクが気になるので、次回の監査項目に含めてもらえませんか?」と提案・依頼するスタンスが、良好な関係を築くコツです。
4.内部監査・連携ミーティング議事録
(ひな形ログ形式)
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💡 このフォーマットを運用する際のポイント
★「【監査役】意見・指導」の列が最も重要です
- IPO審査において、「内部監査から報告を聞いて終わり」では評価されません。「報告を聞いた上で、監査役としてどういうリスクを感じ、どう指導したか」を必ずこの列に自分の言葉で記載してください。
★ネクストアクションは「誰が」を明確に
- アクションプランの主語が曖昧だと改善が進みません。「監査役が動く案件」と「内部監査が動く案件」を明確に書き分けておくと、次回のミーティングでの進捗確認(PDCA)が非常にスムーズになります。
仮設例_売上3倍・社員2倍。内部統制が追いつかない2年間の記録
※本ストーリーは、監査役が実際に直面しやすい状況を仮設のストーリーに託したものです。特定の企業・個人を指すものではありません。
【プロローグ—「おめでとう」と言えなかった日】
売上が前期比180%になったという報告を、取締役会で聞いた日。
役員たちは笑顔だった。
社長の東田は「まだまだいける」と言った。
営業部長の三木は「来期は200%を目指す」と言った。
CFOの堀越は「計画通りです」と言った。
全員が笑っているその場所で、私だけが笑えなかった。
(会社が走るスピードに、仕組みが全くついていっていない)
監査役の仕事が「会社を走らせること」ではなく「走る会社が転ばないようにすること」だとすれば——今の私は、もう走るスピードについていけていない。
——浜田 啓子(常勤監査役・就任1年8ヶ月目)
仮設例_【登場人物】
【登場人物】
【会社】 社員数95名→210名(2年間で倍増)・BtoB向けマーケティングSaaS業・東証グロース上場を目指すN-2期〜N-1期
【社長】 東田誠(39歳)。創業6年目。連続起業家。スピードと成長を最優先にする。「管理コストより成長投資」が口癖
【CFO】 堀越(36歳)。ベンチャーキャピタル出身。資金調達は得意だが、内部統制の整備経験が薄い
【営業部長】 三木(34歳)。急成長の立役者。社内で最も力を持っている
【人事部長】 金子(31歳)。急拡大する採用を一人でさばいている
【主幹事証券担当】 H氏(47歳)。急成長の光と影を両方見ているベテラン
【監査法人パートナー】 奥田(51歳)。内部統制の整備に厳しい視点を持つ
【常勤監査役(語り手)】 浜田啓子(48歳)。元大手コンサルティングファーム出身。内部統制の設計経験がある。就任1年8ヶ月目
仮設例_「快進撃」の影—就任8ヶ月目の発見
【第一章:「快進撃」の影——就任8ヶ月目の発見】
数字は正直だ。浜田が監査役に就任したのは、会社が「急成長フェーズ」に突入する直前だった。
就任時の社員数は95名。売上は年間12億円。
就任から8ヶ月後。
社員数は140名になっていた。
売上は前期比180%の22億円ペースで進んでいた。
数字だけ見れば、快進撃だ。
しかし浜田が月次の往査を続けながら感じていたのは、成長への高揚感ではなかった。
(何かが、どんどんずれていっている)
仮設例_「ずれ」の正体
【「ずれ」の正体】
就任8ヶ月目の営業部門往査で、浜田は具体的な「ずれ」を確認した。
ずれ①:稟議承認者が変わっていた
就任当初、100万円以上の発注は「部長承認+CFO承認」というルールだった。
しかし往査で確認すると、現在の承認者は「部長承認のみ」で処理されている案件が複数あった。
経理担当に聞くと、「社員が増えてCFOが全部確認できなくなったので、現場で便宜的に変えたそうです」と教えてくれた。
「現場で便宜的に変えた」——。
規程の変更なしに、承認プロセスが変わっていた。
ずれ②:新入社員が規程を知らない
今月だけで9名が入社した。浜田は新入社員の一人に聞いた。
「入社研修で、稟議規程の説明はありましたか」
新入社員が首を振った。
「業務の説明はありましたが、稟議とかは……まだ受けていないです」
140名の会社に、稟議規程を知らない社員が何人いるのか。
ずれ③:契約書の管理が誰もできていない
急増した顧客との契約書の管理が、誰の担当か分からない状態になっていた。
営業部は「締結したら法務へ」と言う。法務(兼務の1名)は「件数が多すぎて全部確認できていない」と言う。
「件数が多すぎて確認できていない」——。
これは「法務担当者の問題」ではなく「体制が成長に追いついていない」という問題だ。
仮設例_浜田が感じた「圧倒感」
【浜田が感じた「圧倒感」】
3つのずれを確認した夜、浜田はノートを開いた。しかし何も書けなかった。
問題が多すぎて、どこから手をつければいいか分からなかった。
(稟議の問題を直そうとすれば、規程の改定が必要。規程の改定には取締役会の承認が必要。取締役会に上程するには資料が必要。資料を作るにはCFOの協力が必要。CFOは資金調達で多忙——)
(新入社員への研修を整備しようとすれば、人事部門と連携が必要。人事部長の金子さんは採用だけで手一杯——)
(契約書管理を整備しようとすれば、法務体制の強化が必要。専任の法務担当者を採用するには予算が必要。予算を確保するには社長の優先順位が変わらなければ——)
全部つながっている。しかし全部が「先に何かを動かさないと動かない」という状態になっていた。
浜田は1時間、ノートを前に座っていた。
何も書けないまま、その夜は終わった。
仮設例_主幹事との「本音の対話」
【第二章:主幹事との「本音の対話」】
【H氏への報告】
翌週、主幹事証券のH氏との定例面談があった。浜田は、前週に確認した3つの「ずれ」を報告した。
H氏は資料を見ながら、静かに言った。
「浜田さん、率直に聞きます。今の状況、どのくらい深刻だと思っていますか」
浜田は答えた。
「正直に言うと、問題が多すぎて、どこから手をつければいいか分からなくなっています」
H氏は少し間を置いてから言った。
「その感覚は正しいです。急成長フェーズの会社では、内部統制の問題が雪だるま式に増えます。売上が倍になれば、取引件数も社員数もほぼ倍になる。しかし仕組みが倍になるわけではない」
「どうすればいいですか」
H氏は言った。
「全部同時に直そうとしないことです。急成長フェーズの監査役が陥る最大の罠は、全部を一度に直そうとして、結果的に何も動かないことです」
「全部同時に直そうとしない」——。
この言葉が、浜田の思考を変えた。
仮設例_「3つに絞る」アドバイス
【H氏の「3つに絞る」アドバイス】
H氏が続けた。
「上場審査の観点から言うと、全ての内部統制が完璧である必要はありません。ただし、以下の3つは絶対に機能していなければならない」
必須①:財務報告の正確性に関わる統制
「売上計上・費用認識・引当金。これらに関わる内部統制に問題があると、財務諸表の信頼性が揺らぎます。これは審査で最も厳しく見られます」
必須②:重大な不正を防ぐ統制
「横領・架空取引・インサイダー情報の管理。これらは発覚した場合のダメージが致命的です。完璧でなくていいですが、基本的な歯止めが必要です」
必須③:法令違反リスクに関わる統制
「労務管理・下請法・個人情報保護。これらは行政処分につながる可能性があります」
H氏は最後にこう言った。
「それ以外は、『重要度』と『緊急度』で優先順位をつけて、順番に直していく。全部を今期中に直そうとしないことが、急成長フェーズの監査役の最初の心得です」
仮設例_「優先順位」を決めた日
【第三章:「優先順位」を決めた日】
【浜田が作った「課題マップ」】
H氏との面談の翌日、浜田は「課題マップ」を作った。就任から8ヶ月間で把握した問題を、全て書き出した。
書き出した問題の数:27件。
次に、H氏のアドバイスに従って3つのカテゴリに分類した。
カテゴリA:今すぐ手をつける(財務・不正・法令)
【問題】
稟議承認プロセスの形骸化
売上計上タイミングの基準不統一
時間外労働の実態把握ができていない
個人情報の管理規程が旧版のまま
【分類】
不正防止
財務報告
法令違反
法令違反
【緊急度】
高
高
高
中
カテゴリB:今期中に取り組む
【問題】
契約書管理の属人化
新入社員への規程研修がない
発注書と検収書の突合が未実施
【分類】
業務統制
人材育成
業務統制
仮設例_「絞る」ことへの葛藤
【「絞る」ことへの葛藤】
課題マップを作りながら、浜田は葛藤していた。カテゴリCに分類した19件。その中には「契約書管理」も「新入社員研修」も入っている。
- (これを来期に回していいのか)
- (今期放置したら、もっと大きくなって戻ってくるのでは)
- (全部今すぐやらなければ、監査役として失格ではないか)
その葛藤を、翌週の監査法人・奥田パートナーとの面談で話した。
奥田が言った。
「浜田さん、完璧な内部統制というのは存在しません。どんな会社にも不備はある。大事なのは、重大なリスクが統制されているかどうかです」
「カテゴリCに回した問題は、見て見ぬふりをするわけではありません。次期の監査計画に明示的に入れて、記録として残しておく。それが今の段階でできる最善です」
「次期の監査計画に明示的に入れて記録に残す」——。
(今期できないことを記録に残すことが、将来の自分を守る)
浜田はこの考え方を受け入れた。
仮設例_「走りながら直す」—具体的な3つの戦い
【第四章:「走りながら直す」——具体的な3つの戦い】
戦い①:稟議承認プロセスの「再構築」
最初に手をつけたのは、稟議承認プロセスの問題だった。
浜田はCFOの堀越に申し入れた。
「稟議の承認プロセスが現場で変更されています。CFO承認が省略されているケースが複数確認されました。規程の改定か、運用の是正が必要です」
堀越が答えた。
「分かっています。ただCFOの私が全件確認するのは、今の件数では物理的に無理で」
「では規程を現実に合わせて改定しましょう。500万円以上はCFO承認、500万円未満は部長承認、100万円未満は課長承認——というように金額基準を現実に合わせて再設計します。ただし、抜け穴は作らない」
堀越は「それなら動ける」と言った。
しかし規程の改定案が出てきたのは、6週間後だった。
浜田は毎週堀越に確認した。
3週目:「作業中です」
4週目:「来週には」
5週目:「もう少しで」
6週目:改定案が届いた。
「追いかけることをやめない」——これが急成長フェーズの内部統制整備で最も重要なことだと、浜田はこの6週間で学んだ。
改定案を確認して、浜田は2点の修正を求めた。
「緊急発注の例外規定が広すぎる」という点と「事後承認の上限件数が規定されていない」という点だ。
修正後、稟議規程の改定が取締役会で正式に承認された。
仮設例_戦い②:売上計上基準の「言語化」
【戦い②:売上計上基準の「言語化」】
2つ目の問題は、売上計上タイミングの基準不統一だった。
サービスの種類が増え、「いつ売上を立てるか」の判断が担当者によってバラバラになっていた。
浜田は監査法人の奥田パートナーに相談した。
「収益認識基準の適用について、会社のサービス別の処理方針を文書化していただきたいのですが、監査法人として指導していただけますか」
奥田は言った。
「それは私どもから指示するよりも、会社側で方針を作ってもらって、私どもが確認するという形の方が望ましいです。CFOと一緒に叩き台を作ることを提案します」
奥田・堀越・浜田の3者で「売上計上基準の文書化」プロジェクトが始まった。
2ヶ月かけて作成した「売上計上基準ガイドライン」は、サービスタイプ別に「どのタイミングで売上を計上するか」を具体的に定めたものになった。これを全営業担当者に研修として実施した。
研修後の往査で、浜田は担当者に確認した。
「今月の売上計上で、基準について迷った案件はありましたか」
担当者が答えた。
「1件ありました。ガイドラインを見て、納品日ではなく検収日で計上することにしました」
「ガイドラインを見て判断した」——。
これが「仕組みが機能している」という証拠だった。
仮設例_戦い③:労務管理の「実態把握」
【戦い③:労務管理の「実態把握」】
3つ目は、最も「見えにくい」問題だった。急成長フェーズで社員は増え続けている。しかし時間外労働の実態が把握できていなかった。
会社にはタイムカードシステムがある。しかし実態は「システム上の退勤時刻」と「実際の帰宅時刻」が乖離しているという噂が、浜田の耳に入っていた。
浜田は社員にヒアリングを行った。匿名でのアンケートを実施することにした。15問のアンケートに、回答率は78%だった。
結果は厳しかった。
「実際の退勤時刻と勤怠システムの記録が一致していない」と回答した社員が、回答者の38%いた。
「月の残業が80時間を超えることがある」と回答した社員が11%いた。
浜田はこの結果を、社長の東田に報告した。
仮設例_東田との「直接対決」
【東田との「直接対決」】
東田が資料を見た。
「……38%というのは多いな」
「実態として、サービス残業が発生していると判断せざるを得ません。36協定の特別条項の範囲を超えている可能性があります」
東田の表情が固くなった。
「ただ、みんな自分でやりたくてやっているわけで——」
浜田は言葉を選びながら、しかし引かなかった。
「東田さん、労働基準法上は『本人が望んでいる』かどうかは関係ありません。会社が把握していない時間外労働が発生していた場合、会社の責任になります。特に上場を目指す会社にとって、これは審査で必ず問われます」
東田はしばらく沈黙した。
「……何をすればいい」
浜田は準備していた改善案を出した。
3点だった。
①勤怠システムの退勤打刻を「退社時の実施」として徹底する仕組みを作る
②管理職が部下の残業時間をリアルタイムで確認できるダッシュボードを整備する
③月次で労務管理の状況を浜田に報告する仕組みを作る
東田は全て承認した。
この直接対決が、浜田にとって就任後最大の「壁を越えた」瞬間だった。
仮設例_「追いつかない」という感覚との和解
【第五章:「追いつかない」という感覚との和解】
N-1期に入って
N-2期が終わり、N-1期が始まった。
社員数は210名になっていた。
売上は前々期の3倍になっていた。
浜田は、N-1期の監査計画を立てながら思った。
(まだ追いついていない)
カテゴリCに分類した19件のうち、N-1期に取り組めるのは多くて8〜9件だろう。
残り10件は、上場後に持ち越されるかもしれない。それでいいのか。
浜田はH氏に相談した。
「N-1期になっても、全ての問題が解決できていない状態で申請に向かうことに、監査役として不安があります」
H氏は答えた。
「浜田さん、取引所の審査では『全ての問題が解決されているか』ではなく、『重大なリスクが管理されているか、問題を把握して改善に取り組んでいるか』を見ます」
「重要なのは2点です。一つは、重大なリスクに関わる統制が機能していること。もう一つは、把握した問題に対して計画的に取り組んでいることが記録として見えること」
「審査で『課題を把握し、対応計画を持っている』ということを示せれば、全て解決済みでなくても問題になりません。ただし、把握していなかった問題が発覚した場合は別です」
「把握していて対応計画を持っていること」と「把握していなかったこと」の違い——。
これが浜田の「追いつかない」という感覚への答えだった。
仮設例_「記録」が浜田を守った日
【「記録」が浜田を守った日】
N-1期の第2四半期に、主幹事証券から「補足資料の提出依頼」が来た。
「内部管理体制の整備状況について詳細な資料を提出してほしい」という内容だった。
浜田はカテゴリCに分類した問題について、こう記載した資料を作った。
【把握している課題と対応計画】
- 課題:契約書管理の標準化
- 現状:属人的な管理になっている
- 把握した時期:N-2期 第2四半期
- 対応計画:N-1期 第3四半期に専任担当者を置き台帳を整備する
担当:CFO・法務兼任担当者
【進捗:N-1期 第1四半期に専任担当者を採用済み・台帳整備中】
- 課題:新入社員への規程研修の整備
- 現状:入社時の規程説明が体系化されていない
- 把握した時期:N-2期 第3四半期
- 対応計画:N-1期 第2四半期にオンボーディングプログラムに組み込む
- 担当:人事部長
- 進捗:プログラム設計中(N-1期 第3四半期完成予定)
H氏がこの資料を確認した後、言った。
「これは良い資料です。
把握した時期・対応計画・進捗が全て記録されている。審査官は『なぜこの問題があるのか』より『いつ把握して、どう対応しているか』を見ます。浜田さんの記録があれば、課題が残っていても説明できます」
「記録があれば説明できる」——。
N-2期の課題マップを作り、カテゴリCに分類した問題を「見て見ぬふり」ではなく「計画的に取り組む問題として記録した」という判断が、ここで生きた。
仮設例_社員が変わり始めた日
【第六章:社員が変わり始めた日】
「分からないことを聞いていい空気」N-1期の中盤、ある出来事があった。
新入社員の田村(24歳)が、浜田の監査役室のドアをノックした。
「少しいいですか。確認したいことがあって」
「どうぞ」
「今日、急ぎの発注があったんですが、稟議が間に合わなくて。100万円未満だから課長承認でいいはずなんですが、課長が出張中で。どうすればいいですか」
規程では「課長承認」が必要な金額だ。しかし課長が不在の場合の対応が規程に書かれていない。
浜田は答えた。
「稟議規程に、代理承認の規定がないですね。今日は部長に臨時の代理承認をもらってください。そして来週、私からCFOにこの事例を伝えて、代理承認の規定を追加することを提案します」
田村が言った。
「あの……監査役さんに聞いてよかったんですか」
浜田は少し驚いた。
「もちろんです。こういう相談のために私がいます」
田村が帰った後、浜田は思った。
(新入社員が規程の解釈について監査役に相談しに来た)
これは、1年前にはなかったことだ。
「監査役とは何をする人か分からない」という空気が、少しずつ変わってきていた。
規程の整備が進んだことで、「規程に沿って動こうとする社員」が出てきた。
「走る会社」の中に、「仕組みを意識する人」が増えてきた。
仮設例_東田の変化
【東田の変化】
N-1期の第3四半期の取締役会後、東田が浜田に声をかけた。
「浜田さん、先週の労務管理の状況報告、見ました。サービス残業が38%から12%に下がっていますね」
「勤怠システムの運用を変えて、管理職が毎週確認するようになった結果です」
東田は少し間を置いてから言った。
「正直に言うと、浜田さんが来た当初、内部統制の話を持ってくるたびに『また管理の話か』と思っていました」
「知っています」
東田が少し笑った。
「でも今は違う。サービス残業が減ったことで、社員の離職率が下がりました。採用コストで試算すると、採用の維持効果は年間で相当な金額になる。内部統制は管理コストじゃなくて、投資だったんだなと」
「内部統制は投資だった」——。
東田が自分の言葉でそう言った瞬間、浜田は「ここまで来た」と感じた。
仮設例_「追いつけない」から「一緒に走る」へ
【エピローグ—「追いつけない」から「一緒に走る」へ】
N-1期の年度末。
H氏との年間の振り返り面談で、H氏が言った。
「2年間を振り返って、内部統制の整備状況はどうですか」
浜田は少し考えてから答えた。
「全部は終わっていません。カテゴリCの問題は、上場後に引き継がれるものもあります。ただ、重大なリスクに関わる統制は機能するようになりました。そして、問題を把握していて対応計画を持っているという状態は作れました」
H氏が聞いた。
「2年前と今で、何が最も変わりましたか」
浜田は答えた。
「最初は『追いかけている』感覚でした。会社が走るスピードに、私が必死について行く感覚。今は、少し違います」
「どう違いますか」
「会社の走り方が、少し変わってきた気がします。規程を意識する社員が増えた。東田さんが内部統制を『投資』だと言った。田村さんが規程の解釈を聞きに来た。会社が走りながら、少しずつ自分で転ばないようにしてきている」
H氏が静かに言った。
「それが監査役の仕事が機能したということです。監査役の目標は『追いつくこと』ではなく、『会社が自分で転ばないようになること』ですから」
仮設例_浜田のノート—2年間の整理
【浜田のノート—2年間の整理】
【急成長フェーズの監査役として学んだこと】
◆ 最初の壁:「問題が多すぎて何も動かない」
→ 打開策:3つのカテゴリに分けて優先順位を付ける
A:財務報告・不正防止・法令違反(今すぐ)
B:業務統制の主要問題(今期中)
C:その他(来期以降・記録に残して計画に入れる)
◆ 二番目の壁:「解決しようとしても前に進まない」
→ 打開策:「追いかけることをやめない」
CFOへの稟議規程改定要求:6週間追い続けた
東田への労務問題の報告:3回に分けて伝え続けた
◆ 三番目の壁:「全部終わらないまま申請に向かう不安」
→ 打開策:「把握して記録して対応計画を持つ」
カテゴリCの問題を「見て見ぬふり」ではなく
「把握した時期・対応計画・進捗」として記録する
これが審査での説明を可能にした
◆ 最大の気づき:
「追いつくこと」が目標ではなかった
「会社が自分で転ばないようになること」が目標だった
- 社員が規程を意識し始めたとき
- 社長が内部統制を「投資」と言ったとき
- 新入社員が規程の解釈を聞きに来たとき
これが「仕組みが根付いてきた」という証拠だった
仮設例_このストーリーが伝えたいこと
【このストーリーが伝えたいこと】
急成長企業の監査役が最初に感じる「圧倒感」は、多くの監査役が経験することです。問題を全部把握したとき、「どこから手をつければいいのか」という感覚に囚われます。
このストーリーの浜田が乗り越えた3つの壁を整理します。
壁①:「問題が多すぎて何も動かない」
打開策は「3つのカテゴリで優先順位を付けること」です。財務報告・不正防止・法令違反に関わる問題だけを「今すぐ」のカテゴリに入れる。残りは「今期中」と「来期以降」に分ける。全部を今期に解決しようとしないことが、最初の心得です。
壁②:「動かそうとしても前に進まない」
急成長フェーズでは、全員が忙しい。稟議改定を依頼しても6週間動かない。労務問題を報告しても「仕方ない」と言われる。打開策は「追いかけることをやめない」ことです。毎週確認する。3回に分けて伝える。「しつこい監査役」と思われても引かない。
壁③:「全部終わらないまま申請に向かう不安」
この不安は、急成長企業の監査役に特有のものです。打開策は「把握して記録して対応計画を持つこと」です。解決していない問題でも、「いつ把握したか・どう対応するか・進捗はどうか」が記録されていれば、審査で説明できます。
最後に——。
浜田が2年間で気づいた最大のことは、「追いつくことが目標ではなかった」ということです。
急成長する会社に対して、監査役が「仕組みを追加していく」だけでは追いつけません。
目標は「会社自身が、仕組みを意識するようになること」です。
社員が規程を読むようになる。社長が内部統制を「投資」と捉えるようになる。新入社員が「どうすればいいか」を聞いてくるようになる。
これが実現したとき、監査役は「追いかける人」から「一緒に走る人」になります。
本ストーリーは、監査役が実際に直面しやすい状況を仮設のストーリーに託したものです。 特定の企業・個人を指すものではありません。
出典:IPO監査役ひろば(https://www.kansayaku.net/)
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